こどおじ悠々投資生活

コツコツ投資家ではなくコソコソ投資家★彡(臭   

宗教のビジネス化:~宗教が置き忘れてきてしまったもの~

こんにちは

 

diamond.jp

 

今日、例の女とお茶をして、とあるシアターで並んでデート(?)をしてきました。

あまり大人同士で入る感じではないシアター。彼女のたっての希望です。

 

・・・私の隣に座った彼女は、

演目が終わって場内が明るくなって日常世界に引き戻される刹那、

ちょっと入る力加減を誤ったか、立ち上がってふらついた。

そばに居た小さな少女の体にぶつかって、足を踏んでしまったらしい。

(幸い、彼女は先の尖ったヒールではなくスニーカーを履いていたので、

少女には大したことはなかったようだが)

彼女は少女の顔を見やって、足は大丈夫かどうか念入りに尋ねていた。

彼女はまた、移動のバスの運転手にも「ありがとうございました」と

声をかけていた。

 

・・・彼女は学歴とか偏差値の世界とはほとんど無縁の存在のようです。

だが、ちょっとした無意識に、

その人の人柄というものは立ち現れ垣間見えるものです。

 

わたくしは、伝統ある宗教が唱える御大層な経文の解釈よりも、

こういった何気ない日常のしぐさに意識を置き、実践することによって、

人間の社会というのはもっと驚くほど変わるのではないかと思っています。

 

こないだ寺で、よそから有名な僧(?)を呼んで、その人が講演をするとか言うので

(一応、ウチも檀家になっていてお墓のこととか頼んであるお寺なので・・・・)

聞きに行ってきたのですが、

最近の法話ってのは、綾小路きみまろの漫談のマネなのか、

とりとめもなく泊まった宿がどうとか、芸能人がどうとか、

そんなことばかりでお茶を濁すのでしょうか?

四苦八苦がどうとか、袖振り合うも多生の縁がどうとか、

そういうありきたりの内容にサラっと形式的に触れておけば

あとは適当にお茶を濁しても全体としては法話になるということでしょうか。

僧は、話の途中で自分が何を話しているのか分からなくなってしまったと言い

(わたくしにも、僧の言わんとしていたことは結局何だったのか未だに分からないw)

それを聞いていた年寄りはまるで芸人の漫談を聞いているかのように笑っていた。

だが、その笑い声に、わたくしはどうしても何か引っかかるものを禁じ得ないのです。

 

・・・いや、そういうことよりも、

例えばその場で不用意に痛みを与えてしまった人に寄り添うとか、

自分の目的を果たすことに協力してくれた人に、

小さなことでも職業柄当然のことでもいいから、感謝を示すとか、

モノを大切に扱うとか、日常のありふれた景色の中に、当たり前のようだけれども

ちょっとした【実践】を置くことで、新しい風を感じることができる。

その程度のことでも(というかそういうことの方がむしろ)

意味のある事のように思うのです。

 

・・・自分らの経典には、この土地で耕すことが認められている。

だから、この土地に暮らす異教徒どもの日常を、テロリストをかくまっている名目で

兵器で散々に踏みつぶしてもよい・・・

 

・・・そんなものは宗教でさえなく、ただの人間のエゴだと気づかないのだろうか。

「経典の民」を気取るヘンな帽子に黒ずくめのコスプレイヤーのみなさん、

あるいは「愛情はカネだよ」と軽口をたたいて女からカネを撒き上げるジゴロの諸君。

諸君は、路傍の石に対しても敬意をもって接する慈愛の心を持っているだろうか。

 

いくら経文(笑)を解釈でこねくり回してみても、

或いは女の耳元で軽口を囁いても、

そこには一片の愛もない。

 

愛を示そう。

ならば、そこにある路傍の石に、ただの石ころに、

ありったけの敬意をもって接したまえ。

 

わたくしはそれができる女との縁を、これからも大切にしていきたいと思いました☆彡wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww